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モホイ=ナジとは?バウハウスの光と写真の芸術家の生涯と代表作
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モホイ=ナジとは?バウハウスの光と写真の芸術家の生涯と代表作

モホイ=ナジ(László Moholy-Nagy、1895〜1946年)は、バウハウスで教えたハンガリー出身の芸術家・写真家・デザイナーです。「モホリ=ナギ」とも表記されます。カメラを使わない写真「フォトグラム」や、光と動きでつくる作品によって、20世紀のデザインに「ニュー・ヴィジョン(新しい視覚)」をもたらしました。

絵画、写真、タイポグラフィ、舞台、映画、そして教育。ひとりの人物がなぜこれほど多くの分野を横断できたのでしょうか。この記事では、モホイ=ナジの生涯と代表作、バウハウスでの授業、写真と光の実験、シカゴの「ニュー・バウハウス」、そして日本との接点までをわかりやすく解説します。

最終更新:2026年10月12日

モホイ=ナジとは?

Who Was László Moholy-Nagy?

モホイ=ナジは、1923年から1928年までバウハウスのマイスター(教師)を務め、学校の方向を「芸術と技術の統一」へと大きく動かした人物です。創設者ヴァルター・グロピウスは、彼を「バウハウスを築き上げた最も積極的な同僚のひとり」と振り返っています。

バウハウスの芸術家ラースロー・モホイ=ナジの肖像写真
ラースロー・モホイ=ナジ(1930年ごろ)。撮影:フーゴ・エアフルト

モホイ=ナジの定義

Moholy-Nagy in One Sentence

モホイ=ナジは、絵の具や筆のかわりに光・写真・機械・新素材を使って、「ものの見方」そのものを更新しようとしたバウハウスの芸術家・教育者です。

彼の著書『ザ・ニュー・ヴィジョン』(原題『材料から建築へ』)は、バウハウスの基礎教育を一般向けにまとめた本として、いまもデザインを学ぶ人に読まれています。

プロフィール

  • 名前:ラースロー・モホイ=ナジ(László Moholy-Nagy)/モホリ=ナギ
  • 生年:1895年7月20日、ハンガリーのバーチボルショード生まれ
  • 没年:1946年11月24日、アメリカ・シカゴ
  • 分野:絵画、写真、タイポグラフィ、グラフィックデザイン、舞台美術、映画、教育
  • バウハウス:1923〜1928年。予備課程と金属工房を担当
  • 代表作:フォトグラム、《A II》(1924年)、《ライト・スペース・モジュレーター》(1930年)、著書『ザ・ニュー・ヴィジョン』

日本語の表記は「モホイ=ナジ」と「モホリ=ナギ」の2通りがあります。ハンガリー語の発音に近いのは「モホイ=ナジ」で、2011年に日本で開かれた大規模な回顧展もこの表記を使いました。一方、「モホリ=ナギ」は英語読みに近く、古い本や事典でよく見かけます。

ハンガリーからベルリンへ

Early Life: From Hungary to Berlin

モホイ=ナジは、ハンガリーの農村で育ちました。第一次世界大戦に従軍したあと、本格的に絵を描きはじめます。最初の手本はルネサンスの巨匠や、レンブラント、ゴッホの素描でした。

モホイ=ナジが1918年に描いた自画像
モホイ=ナジの自画像(1918年)。画家として歩みはじめたころの作品

1919年にウィーンへ移り、1920年にはベルリンへ。工業都市ベルリンの機械や鉄骨の風景に強く惹かれ、拾った機械部品を板に貼りつけた作品や、写真を切り貼りするフォトモンタージュを制作しました。ハンガリーの前衛雑誌『MA(今日)』のベルリン代表も務めています。

1922年には、エル・リシツキーやテオ・ファン・ドゥースブルフらが集まったワイマールの「構成主義者・ダダイスト会議」に参加しました。この年、ベルリンでグロピウスと出会ったことが、バウハウスへの道を開きます。

「電話で注文した絵」の話

The Telephone Pictures (1922)

モホイ=ナジ本人の回想によると、1922年、彼は看板工場に電話で5枚のほうろう(エナメル)絵画を注文しました。工場の色見本と方眼紙を使い、形と色を電話口で伝えたといいます。「作家の手の跡」を消す試みとして有名な逸話です。

ただし、当時の妻で写真家のルチア・モホイは、のちに「実際には本人が工場に出向いて注文した」と書いています。作品も最初は「エナメル画(EM 1〜5)」と呼ばれていました。この話は、両方の証言をあわせて知っておくのが正確です。

バウハウスの5年間(1923〜1928年)

At the Bauhaus, 1923–1928

1923年3月、グロピウスはモホイ=ナジをワイマールのバウハウスのマイスターに任命しました。彼は、ヨハネス・イッテンのあとを継いで予備課程(基礎教育)を担当し、同時に金属工房のマイスターにもなります。

当時のバウハウスは、表現主義的で精神性を重んじる空気から、工業生産と結びつく学校へと変わろうとしていました。モホイ=ナジは、グロピウスが掲げた「芸術と技術——新しい統一」を体現する存在でした。金属工房では、のちに名作照明を生むマリアンネ・ブラントらが育ち、手仕事の試作から工業製品のモデルへと仕事が移っていきます。

一方で、新しく来た彼に反発する教師や学生もいました。舞台工房のローター・シュライヤーは、モホイ=ナジの到来を「まったく異質な世界がバウハウスに入ってきた」と回想しています。

モホイ=ナジがデザインしたバウハウス叢書第7巻の表紙
モホイ=ナジがデザインした『バウハウス叢書』第7巻『バウハウス工房の新作』の表紙(1925年)。Bauhaus-Archiv Berlin

モホイ=ナジは、グロピウスとともに「バウハウス叢書(バウハウス・ブックス)」の編集も手がけ、表紙や誌面のデザインを担当しました。彼自身の『絵画・写真・映画』(1925年)と『材料から建築へ』(1929年)も、このシリーズから出版されています。

1925年、バウハウスがデッサウへ移ると、モホイ=ナジはグロピウス設計のマイスターハウス(教員住宅)に住みました。画家ライオネル・ファイニンガーと一棟を分け合った住宅は、現在も見学できます。

デッサウにあるモホイ=ナジとファイニンガーのマイスターハウス
デッサウのマイスターハウス(モホイ=ナジ/ファイニンガー邸)

1928年、グロピウスが校長を退くと、モホイ=ナジも5年間務めたバウハウスを去りました。バウハウスの歴史全体は、「バウハウスとは?」の記事で詳しく紹介しています。

予備課程と「触覚」の授業

The Preliminary Course and Tactile Training

モホイ=ナジの予備課程は、意外にも「触ること」から始まりました。学生は目隠しをして、布、金属、パン、革、紙、陶器、スポンジなどを指先だけで当てる実験をします。

そのあと、手ざわりの違う素材を並べた「触覚板(タクタイル・テーブル)」をつくり、かたい/やわらかい、なめらか/ざらざら、といった感覚を体系的に確かめていきました。

バウハウスの予備課程でオッティ・ベルガーがつくった糸の触覚板
オッティ・ベルガーの触覚板「糸の触覚表」(1928年)。『The New Vision』より(撮影:Consemüller)

彼は、素材の見え方を「構造」「テクスチャー」「表面処理」「集積」の4つの言葉で整理しました。木目や紙の繊維、金属の結晶、道具の跡。いま私たちが家具や雑貨の「素材感」を語るときの言葉の多くは、この授業の延長線上にあります。

モホイ=ナジの予備課程で学生がつくったバランスの習作
ヨハネス・ツァーベル《バランスの習作》(1923年ごろ)、モホイ=ナジの予備課程。撮影:ルチア・モホイ/Atelier Eckner、Bauhaus-Archiv Berlin

もうひとつの名物が、ガラス・金属・木を組み合わせた「バランスの習作」です。台座をなくし、わずかな支点で立つ構成をつくることで、学生は重さや力の流れを体で学びました。材料を少しでも軽くできれば、それが小さな勝利だったといいます。

ラースロー・モホイ=ナジの肖像
「すべての人は才能をもっている。」

- László Moholy-Nagy「The New Vision」(要旨)

モホイ=ナジは、色や音、手ざわり、空間を感じる力は特別な人だけのものではなく、誰もが訓練で伸ばせると考えました。デザインを「天才の仕事」ではなく、誰もが学べる基礎として教えたことが、彼の教育の最大の特徴です。

フォトグラムと「ニュー・ヴィジョン」

The Photogram and the New Vision

フォトグラムとは、カメラを使わず、印画紙の上に物を置いて直接光を当てる写真の技法です。透明なガラスや液体、レンズを使うと、影だけでなく光そのものの揺らぎが写ります。モホイ=ナジはこれを「光で書くこと」と呼びました。

カメラを使わずに光でつくったモホイ=ナジのフォトグラム
モホイ=ナジのフォトグラム(1923年)

フォトグラムを「発明」したのは誰?

Who Invented the Photogram?

カメラなしの写真は19世紀のタルボット以来ありましたが、1920年代に芸術として本格化させた人物は複数います。マン・レイは「レイヨグラフ」、クリスティアン・シャートは「シャドグラフ」と呼び、モホイ=ナジは「フォトグラム」という名前を広めました。

モホイ=ナジ自身、始めた年を1920年・1921年・1922年と文章ごとに違って書いています。「フォトグラムの発明者」と言い切るのではなく、この技法を芸術と教育に広めた中心人物のひとりと理解するのが正確です。

カメラを使う写真でも、モホイ=ナジは真上から見下ろす構図や、真下から見上げる極端なアングルを好みました。いまでは当たり前のこうした視点を、1920年代に意識的に使ったのが彼の「ニュー・ヴィジョン(新しい視覚)」です。

ベルリン放送塔の鉄骨を写したモホイ=ナジの写真
ベルリン放送塔(フンクトゥルム)の鉄骨を写したモホイ=ナジの写真
モホイ=ナジの自画像
「これからの時代に“読み書きができない人”とは、写真を使えない人のことだろう。」

- László Moholy-Nagy「The New Vision」(要旨)

この言葉は、のちに思想家ヴァルター・ベンヤミンも引用し、写真の時代を語る有名なフレーズになりました。写真が誰にとっても身近になった今、あらためて重みを感じる言葉です。写真をインテリアとして楽しむなら、写真ポスターのコレクションもご覧ください。

絵画——透明な色面の構成

Painting: Transparent Planes of Color

モホイ=ナジの絵画は、円や長方形、帯のような単純な形が、半透明のガラスのように重なり合うのが特徴です。色面が前後に浮かんで見えることで、平らな画面の中に奥行きと光が生まれます。

半透明の色面が重なるモホイ=ナジの絵画《A II》
《A II》(1924年)。ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵

彼は、絵の具の盛り上がりや筆の跡といった「個人の手ざわり」をあえて消し、エアブラシやスプレーガンで均一な面をつくりました。晩年には、アルミ板や透明なプラスチック板に描き、影まで作品の一部にしています。バウハウスの画家たちの造形については、バウハウス絵画の基本要素の記事も参考になります。

本人は晩年、「この25年に描いた形は、すべて最初のコラージュで使った帯(ストリップ)の変奏だった」と振り返っています。

光の造形——ライト・スペース・モジュレーター

Light Prop for an Electric Stage (Light-Space Modulator)

モホイ=ナジが「光と運動」の探究を形にしたのが、《電気舞台のための光の小道具(ライト・スペース・モジュレーター)》です。穴のあいた金属板、ガラス、セルロイドなどがモーターで回転し、周囲の壁に光と影の模様を投げかけます。

モホイ=ナジの光の装置ライト・スペース・モジュレーター
《電気舞台のための光の小道具(ライト・スペース・モジュレーター)》1930年(後年の改修を含む)。ハーバード大学ブッシュ=ライジンガー美術館

構想から完成までおよそ10年。1930年に初めて動かしたとき、本人は「魔法使いの弟子になったようだった」と書いています。同じ年、この装置を撮影した抽象映画《光の遊戯 黒・白・灰》もつくられました。実物は現在、ハーバード大学のブッシュ=ライジンガー美術館が所蔵しています(作品ページ)。

電気で動く彫刻としては最も早い例のひとつとされ、のちのキネティック・アート(動く芸術)や光のインスタレーションの先駆けと評価されています。照明を「明るくする道具」ではなく空間をつくる素材として見る視点は、現代の照明デザインにもつながります。光のある暮らしに興味がある方は、照明のコレクションもどうぞ。

バウハウス後のベルリン、アムステルダム、ロンドン

After the Bauhaus: Berlin, Amsterdam, London

バウハウスを離れたモホイ=ナジは、ベルリンにスタジオを開き、オペラや演劇の舞台美術、展覧会デザイン、広告の仕事を手がけました。1928年のベルリン国立歌劇場『ホフマン物語』では、透明な素材と影だけで舞台空間をつくっています。

1933年にナチスが政権を握ると、外国人で前衛芸術家の彼はドイツにとどまれなくなります。1934年にアムステルダム、1935年からはロンドンへ移り、グラフィックデザインや写真の仕事を続けました。ロンドンではH・G・ウェルズ原作の映画『来るべき世界』(1936年)の特殊効果も試作しています。

シカゴの「ニュー・バウハウス」

The New Bauhaus in Chicago

1937年、モホイ=ナジはシカゴの芸術産業協会に招かれ、「ニュー・バウハウス——アメリカン・スクール・オブ・デザイン」の校長になります。予備課程を土台に、木工・金属、テキスタイル、色彩、光(写真・映画・タイポグラフィ)、造形、舞台の6つの工房を置き、最後に建築を学ぶ構想でした。

モホイ=ナジがデザインしたシカゴのニュー・バウハウスの学校案内
シカゴのニュー・バウハウス(アメリカン・スクール・オブ・デザイン)の学校案内。デザイン:モホイ=ナジ、Bauhaus-Archiv Berlin

しかし学校は資金難と運営側との対立から、わずか1年後の1938年に閉校します。モホイ=ナジはあきらめず、1939年に自ら「スクール・オブ・デザイン」を開き、1944年に「インスティテュート・オブ・デザイン」へと改組しました。この学校はのちにイリノイ工科大学の一部となり、アメリカのデザイン教育に大きな影響を残します。

1946年11月24日、モホイ=ナジは白血病のためシカゴで亡くなりました。51歳でした。最後の著作『ヴィジョン・イン・モーション』は、彼のシカゴでの教育をまとめた本です。

モホイ=ナジと日本

Moholy-Nagy and Japan

『ザ・ニュー・ヴィジョン』の触覚の授業のページには、「Mizutani」という学生が1927年にデッサウでつくった作品が載っています。曲げた2本の木の支えのあいだにゴムを張り、太鼓のように指で叩いて圧力を感じる装置です。

バウハウスの学生Mizutaniが1927年につくった木とゴムの触覚の習作
「Mizutani」の触覚の習作(1927年)。曲げた木の支えにゴムを張った装置。『The New Vision』より(撮影:Clasen)

この学生は、バウハウスに留学した日本人のひとり、水谷武彦だと考えられます。バウハウスの日本人留学生には、ほかに山脇巌・山脇道子、大野玉枝がいました。デッサウと東京をつないだ人々については、デッサウと東京のバウハウスの記事で紹介しています。

日本では2011年に、日本初の大規模な個展「モホイ=ナジ/イン・モーション」が神奈川県立近代美術館 葉山で開かれ、京都国立近代美術館、DIC川村記念美術館へ巡回しました。東京都写真美術館や東京国立近代美術館も、彼のフォトグラムを所蔵しています。

モホイ=ナジのデザインの考え方

Key Ideas of Moholy-Nagy

5つのキーワード

  • 芸術と技術の統一:機械や工業素材を、芸術の道具として積極的に使う。
  • 光は素材である:絵の具のかわりに、光そのもので空間と形をつくる。
  • 誰もが才能をもつ:感覚は訓練で伸ばせる。デザインは誰もが学べる基礎。
金属の円盤とガラスが組み合わされたライト・スペース・モジュレーターの細部
  • 名作より「標準」:一点物の傑作より、多くの人が使える「型(スタンダード)」を重視する。
  • 新しい視覚:写真や映画が生む新しい見方で、世界を見直す。

彼の機能主義は、冷たい合理主義ではありません。モホイ=ナジは「機能」に、使う人の心理や社会的な条件まで含めて考えました。機能では決まりきらない部分には、直感の自由が残されているとも書いています。

現代のデザインへの影響

Moholy-Nagy's Legacy in Modern Design

モホイ=ナジが育てた「基礎教育から始めるデザイン学校」のかたちは、シカゴのインスティテュート・オブ・デザインを通じてアメリカに根づき、世界中の美術大学・デザイン学校の基礎課程に受け継がれています。

写真を芸術と教育の中心に置いた考え方、光を動かして空間を変える発想、素材の手ざわりから考えるプロダクトデザイン。どれも、いまの写真表現、照明デザイン、インテリアに自然に溶けこんでいます。バウハウスのグラフィックの魅力を部屋で楽しむなら、バウハウス・ポスターから選ぶのもおすすめです。

よくある質問

FAQ

モホイ=ナジはどんな人ですか?

ハンガリー出身の芸術家・写真家・デザイナーで、1923〜1928年にバウハウスで予備課程と金属工房を担当しました。フォトグラムや光の作品で知られ、のちにシカゴで「ニュー・バウハウス」を創設しました。

「モホイ=ナジ」と「モホリ=ナギ」はどちらが正しいですか?

どちらも同じ人物です。ハンガリー語の発音に近いのが「モホイ=ナジ」、英語読みに近いのが「モホリ=ナギ」です。近年の美術館や展覧会では「モホイ=ナジ」が多く使われています。

モホイ=ナジの代表作は何ですか?

1920年代のフォトグラム、絵画《A II》(1924年)、光の装置《ライト・スペース・モジュレーター》(1930年)、著書『絵画・写真・映画』『ザ・ニュー・ヴィジョン』『ヴィジョン・イン・モーション』などが代表作です。

フォトグラムとは何ですか?

カメラを使わず、印画紙の上に物を置いて直接光を当ててつくる写真です。一枚ごとに結果が変わる一点物になります。マン・レイらも同じ時期に取り組んでおり、モホイ=ナジは「フォトグラム」という名前を広めました。

バウハウスで何を教えていましたか?

新入生のための予備課程と、金属工房を担当しました。目隠しで素材を当てる触覚の実験、素材の表面処理、バランスの習作などを通して、感覚と技術の基礎を教えました。

ニュー・バウハウスとは何ですか?

1937年にモホイ=ナジがシカゴで開いたデザイン学校です。1938年に閉校しましたが、1939年の「スクール・オブ・デザイン」、1944年の「インスティテュート・オブ・デザイン」として受け継がれ、のちにイリノイ工科大学の一部になりました。

「電話で描いた絵」は本当ですか?

本人は1922年に看板工場へ電話でほうろう絵画を注文したと書いています。一方、当時の妻ルチア・モホイは、実際には工場に出向いて注文したと証言しています。両方の説があると理解しておくのが正確です。

モホイ=ナジと日本には関係がありますか?

著書『ザ・ニュー・ヴィジョン』には、1927年にバウハウスで学んだ「Mizutani」という学生の作品が載っており、日本人留学生の水谷武彦と考えられています。2011年には日本初の大規模個展が葉山・京都・佐倉で開かれました。

モホイ=ナジは、光や写真、機械といった「新しい道具」で、私たちの見方そのものを変えようとした人でした。バウハウスで始まり、ベルリン、ロンドン、シカゴへと渡ったその仕事は、写真表現や照明デザイン、デザイン教育の中にいまも生きています。バウハウスの全体像をもう一度たどりたい方は、「バウハウスとは?」もあわせてお読みください。さらに詳しい経歴は、バウハウス・コーペレーションの人物紹介(英語)で確認できます。

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Welcome to Bauhaus Japan
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