ヘリット・トーマス・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld、1888〜1964年)は、オランダの家具デザイナーであり建築家です。芸術運動「デ・ステイル」を代表する存在として、赤・青・黄・黒で塗り分けた「レッド&ブルーチェア」や、世界遺産に登録されているユトレヒトの「シュレーダー邸」を生み出しました。
座面と背もたれが宙に浮いているように見える椅子や、壁が動く家は、なぜ100年以上たった今も語り継がれているのでしょうか。この記事では、リートフェルトの生涯、代表作、デザインの考え方、バウハウスとの関係、そして日本との意外な接点までをわかりやすく解説します。
最終更新:2026年9月24日
ヘリット・トーマス・リートフェルトとは?
Who Was Gerrit Thomas Rietveld?
リートフェルトは、オランダ中部の都市ユトレヒトに生まれ、生涯のほとんどをこの街で過ごしました。家具職人として出発し、その後に建築家として認められた、少し変わった経歴の持ち主です。
リートフェルトの定義
Rietveld Definition
ヘリット・トーマス・リートフェルトとは、20世紀オランダを代表する家具デザイナー・建築家です。直線と面、原色によるデ・ステイルの考え方を、椅子や住宅という実際の暮らしの道具・空間として立体化したことで知られます。
研究者ダニエレ・バローニは、リートフェルトの椅子を「小さな建築」にたとえています。椅子も建築も、リズム、面、構造、空間の緊張を備えているからです。
リートフェルトのプロフィール
- 生年月日:1888年6月24日、オランダ・ユトレヒト
- 没年月日:1964年6月25日、ユトレヒト(76歳)
- 職業:家具デザイナー、建築家
- 所属:デ・ステイル(1918〜19年ごろ参加)
- 代表作:レッド&ブルーチェア、ベルリンチェア、ジグザグチェア、クレート家具、シュレーダー邸、ファン・ゴッホ美術館(本館)
- 世界遺産:シュレーダー邸が2000年に登録
なお、日本語では「ヘリット」「ヘーリット」、「トーマス」「トマス」のように表記に揺れがあります。「シュレーダー邸」も「シュローダー邸」「シュレーテル邸」と書かれることがあります。この記事では、Wikipediaなどで一般的な「ヘリット・トーマス・リートフェルト」「シュレーダー邸」に統一します。
生い立ち——家具職人の息子からデザイナーへ
Early Life: From Cabinetmaker's Son to Designer
リートフェルトの父は家具職人でした。リートフェルトは11歳ごろに学校を離れ、父の工房で修業を始めます。デザイナーとしての出発点は、あくまで「手を動かす人」だったのです。
その後、夜間の製図クラスで学びながら、1906年から1911年まではユトレヒトの宝飾商C・J・ベゲール社で製図の仕事をしました。1911年には自分の家具工房を開き、並行して建築家P・J・クラーハマーのもとで建築を学んでいます。
リートフェルト初期の主な歩み
- 1888年:ユトレヒトに生まれる
- 1899年ごろ:家具職人の父のもとで修業を始める
- 1906〜1911年:宝飾商ベゲール社で製図・デザインの仕事。夜間クラスでも学ぶ
- 1908年:オークと革の椅子を制作(現在はユトレヒトのセントラル美術館が所蔵)
- 1911年:独立して自分の家具工房を開く
- 1911〜1915年:建築家クラーハマーのもとで建築を学ぶ
- 1916年ごろ:3本の角材を直角に組む「構造の結節点」を考案
1908年の椅子は、建築家ベルラーヘの影響が強い、素朴な作品です。1916年ごろまでのリートフェルトの家具は、まだ後の大胆さを見せていません。転機は、角材を直角に重ねるという、非常にシンプルな組み方の発見でした。
デ・ステイルとリートフェルト
De Stijl and Rietveld
デ・ステイルとは
De Stijl Definition
デ・ステイル(De Stijl)は、1917年にオランダで創刊された雑誌、およびその周辺に集まった芸術運動の名前です。オランダ語で「様式」を意味します。
画家のピート・モンドリアンやテオ・ファン・ドゥースブルフらが中心となり、水平・垂直の直線と直角、赤・青・黄の三原色と白・黒・灰色だけで、絵画から建築、家具までを再構成しようとしました。
リートフェルトは、この運動に1918年から1919年にかけて加わりました。参加時期は資料によって1918年とも1919年ともされ、はっきりしません。ただし、運動の理論家だったわけではありません。モンドリアンやファン・ドゥースブルフが理論を語る一方で、リートフェルトは「手を動かして形にする人」でした。
絵画で追求された抽象的な原理を、座れる椅子や住める家という、生活の中の立体物に置き換えたこと。それがリートフェルトの最大の貢献でした。ファン・ドゥースブルフは、1919年ごろのリートフェルトの家具を「未来の室内の抽象的な彫刻」のようだと評しています。
レッド&ブルーチェア(赤と青の椅子)
Red and Blue Chair
リートフェルトの名を世界に広めたのが、レッド&ブルーチェア(オランダ語で「Rood Blauwe stoel」)です。デ・ステイルの考え方を、最も分かりやすい形にした椅子として知られます。

原型は1917年ごろに作られたとされます。最初の版は着色されておらず、木の色のままで、両脇にも板がありました。1918年ごろには角材を細くして側板を外し、軽やかな現在の姿に近づきます。
赤・青・黄・黒の色が塗られたのは、その後のことです。ニューヨーク近代美術館(MoMA)はこの椅子を「1918〜1923年」の作品として所蔵しています。制作年が幅を持つのは、形と色の完成に時間がかかったためです。画家バルト・ファン・デル・レックが着色を勧めたとする説明もあります。
レッド&ブルーチェアの特徴
- 断面が正方形の角材を、直角に交差させて組んでいる
- 座面と背もたれは、傾いた2枚の板。2枚は互いに触れていない
- 研究書によれば、最初の版は10cmのグリッドと3.3cmの角材を基準にした単純な設計だった
- 黒い枠組みの角材の端(断面)は、黄色で塗られている
- 金属部品や複雑な加工に頼らず、材料をそのまま重ねることで構成されている
- Gerrit Thomas Rietveld(1963年のインタビューより。Baroni, The Furniture of Gerrit Thomas Rietveld に引用された趣旨)
リートフェルト自身は、この椅子が後にこれほど大きな意味を持つとは思っていなかったと語っています。そして、同じ原理で家を建てる機会が訪れたとき、迷わずそれを選んだ、とも。その家が、次に紹介するシュレーダー邸です。
現在は、イタリアのカッシーナが「I Maestri(巨匠たち)」コレクションとして復刻しています。1971年に権利を取得し、1973年から製品化されたとされます。
シュレーダー邸——壁が動く世界遺産の家
Rietveld Schröder House
ユトレヒトのプリンス・ヘンドリクラーン通りに建つシュレーダー邸は、リートフェルトが1924年に完成させた住宅です。デ・ステイルの理念を実際の建築として実現した初期の代表例で、2000年にユネスコ世界遺産に登録されました。
注文主は、夫を亡くし、3人の子どもを育てていたトゥルース・シュレーダー=シュレーダー(Truus Schröder-Schräder)です。彼女は1925年1月に子どもたちと入居し、1985年に亡くなるまでこの家に暮らしました。
- Truus Schröder(シュレーダー邸公式サイトより。趣旨を日本語訳)
シュレーダー邸は、リートフェルトとトゥルースが対等に話し合って作った家として知られます。1階には、二人の建築事務所「Schröder and Rietveld Architect」も置かれていました。

この家で最も有名なのが、2階の可動式の壁です。昼は壁を開いてひとつながりの広い空間にし、夜は壁を閉じて個室に変えられます。家族の暮らしや年齢の変化に合わせて、間取りを変えながら住むための仕組みでした。

日本の住まいに慣れた人なら、襖や障子で部屋を仕切ったり開けたりする感覚に近いと感じるかもしれません。実際に、シュレーダー邸の可動間仕切りは、日本の襖にたとえられることがあります。ただし、日本建築から直接影響を受けたと明記した一次資料は確認できていないため、ここでは「似た発想」として紹介するにとどめます。
シュレーダー邸の特徴
- 2階は固定壁が少なく、スライド式の壁で空間を区切る
- 水平線と垂直線、原色(赤・青・黄)と白・黒・灰色による構成
- 角の窓を開けると、角そのものが消えたように見える
- 室内の家具(椅子、テーブル、照明)も建築と同じ考え方で設計された
- 施主トゥルース・シュレーダーとの共同設計
- 現在は美術館として公開され、ユトレヒトのセントラル美術館が管理
見学の方法や開館日は、公式サイトで最新情報を確認してください(Rietveld Schröder House 公式サイト)。ユネスコの登録情報は世界遺産センターの日本語ページから確認できます。
ベルリンチェアとスチールパイプの椅子
Berlin Chair and Tubular Metal Furniture
1923年、リートフェルトは画家ヴィルモス・フサールとともに、ベルリンの展覧会用に室内空間を手がけました。そこに置かれたのがベルリンチェアです。
この椅子では、角材を組む「線」の構成から、板を組む「面」の構成へと考え方が変わりました。全体は黒と濃淡の灰色に塗られています。まわりの部屋を原色で彩る中で、椅子は静かな中立の存在として置かれました。

リートフェルトの家具の主な変遷
- 1917〜1918年ごろ:レッド&ブルーチェアの原型と改良
- 1919年:食器棚やハイバックチェア。デ・ステイル誌で紹介される
- 1923年:ベルリンチェア(ベルリン展)。線から面の構成へ
- 1927〜1933年ごろ:スチールパイプの椅子。1930年ごろからオランダのメッツ商会が製造
- 1934年:ジグザグチェア、クレート家具
- 1963年:スティルトマン・チェア。晩年の代表作のひとつ
1920年代半ばになると、ヨーロッパではスチールパイプの椅子が急速に広がります。バウハウスのマルセル・ブロイヤーが1925年に最初の肘掛け椅子を作り、その後もマルト・スタム、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエらが続きました。
リートフェルトも1926年ごろからスチールパイプの椅子に取り組みます。1927年の肘掛け椅子は、直径18mmのクロームメッキのパイプに、曲げた合板の座を組み合わせたものです。1930年ごろにはメッツ商会が製造を始め、これがリートフェルトにとって初めての量産になったと、バローニは述べています。
1933年には、約4mの1本のパイプから作る椅子にも挑戦しました。ただ、パイプが柔らかいと座面が不安定になり、太くすると曲げた部分が折れる恐れがあるなど、当時は素材の課題が残りました。
ジグザグチェア
Zig-Zag Chair
リートフェルトの椅子の中でも、特に象徴的なのがジグザグチェアです。1934年に発表され、後ろから見るとZ字を横に倒したように見える、ごく単純な形をしています。

構造は、背、座、支え、脚の4枚の板でできています。斜めの板を入れることで、垂直と水平だけの構成に「斜め」という緊張が加わりました。バローニは、これをデ・ステイルの理論家ファン・ドゥースブルフが1924年ごろに唱えた「エレメンタリズム」(斜めの線を取り入れる考え方)と関連づけています。
当初の材料はニレ材でした。背と座は組み継ぎでつなぎ、鋭い角には三角形の補強材を入れて強度を保っています。日本のカッシーナ・イクスシーの公式サイトによれば、現在の製品も4枚の板を隅木で補強する方式で、金属の接合部品は使っていません。
リートフェルトの助手だったファン・デ・フルーネカンによれば、リートフェルトは木の表面を塗らず、素の質感を好んだといいます。太陽や海の塩分で木を漂白する方法を好むこともあったようです。
豊田市美術館が所蔵するジグザグ・チェアは、1932〜33年にデザインされ、1940年に制作されたとされています。発表は1934年でも、構想はそれより少し前にさかのぼる可能性があります。
クレート家具——1934年のフラットパック
Crate Furniture: Rietveld's 1934 Flat-Pack Design
同じ1934年に、リートフェルトはもうひとつ重要なシリーズを発表します。それがクレート家具(オランダ語で「Krat」、木箱の意味)です。
安価な針葉樹の板をネジで留めただけの、木箱のようなシンプルな家具でした。肘掛け椅子、ローテーブル、本棚などがあり、「お金はないが、モダンな家具がほしい知人」のために考えたと伝えられています。

のちに、メッツ商会が「週末用家具」として販売しました。自分で組み立てるキットとして届けられ、リートフェルトは無塗装の仕上げを好んだものの、希望すれば好きな色に塗った版も選べたといいます。
研究書によれば、板は厚さ18mm、幅14.5cmが基本で、パーツをまとめて薄い箱に詰められる設計でした。こうした「板を平らに詰める」「自分で組み立てる」という発想は、現代のフラットパック家具やモジュール家具の考え方にも通じます。
ただし、バローニが述べる「アメリカのDIYの起源」といった見方は、あくまで研究者の推測です。歴史的な事実として断定はできません。
リートフェルトとバウハウスの関係
Rietveld and the Bauhaus
リートフェルトは、バウハウスの教員でも学生でもありません。あくまでオランダのデ・ステイルの人です。それでも、両者は互いに近い場所にいました。
1923年、ヴァイマールで開かれた最初の大きなバウハウス展に、リートフェルトは招かれて作品を出展しました。研究書によれば、そこに送ったのはハイバックチェアだったとされています。一方で、バウハウスとの対立を抱えていたファン・ドゥースブルフは、この出展に強く不満を示しました。
バウハウスとデ・ステイルの違い
- バウハウス:教育機関。工房での実習を軸に、芸術・工芸・技術の統合を目指した
- デ・ステイル:雑誌と運動。画家・建築家が集まり、造形の原理を追求した
- 共通点:幾何学的な構成、装飾の否定、生活全体をデザインするという意識
- 違い:バウハウスは学校として制度を持ち、デ・ステイルはより理論的で教条的だった
歴史学者エーヴァ・フォルガーチは、デ・ステイルがバウハウスに「刺激を与えた」と述べています。彼女によれば、マルセル・ブロイヤーが1922年に設計した有名な肘掛け椅子には、リートフェルトの影響がありました。グロピウスの校長室の照明にも、デ・ステイルの影響があったといいます。
バウハウスの成り立ちや理念を知りたい方は、バウハウスとは何かをご覧ください。バウハウスの色彩や造形要素の考え方は、バウハウス絵画の基本要素の記事で紹介しています。
建築家としての歩みと晩年
Rietveld the Architect and His Later Years
シュレーダー邸のあと、リートフェルトは建築家として活動を広げます。1928年にスイスのラ・サラで開かれたCIAM(近代建築国際会議)には、オランダ代表の一人として参加しました。続く1929年のフランクフルト会議では、「最小限住宅(Existenzminimum)」が主題でした。
リートフェルトはこの問題に熱心で、1930〜31年にはユトレヒトで、労働者向けの低価格な連続住宅「Rij Huizen」を設計しています。階段や設備を縦にまとめ、限られた面積を有効に使う工夫が特徴です。
第二次世界大戦後、リートフェルトはオランダの復興事業から外されました。再び注目されたのは1950年代以降です。1951年にはアムステルダムのステデライク美術館でデ・ステイル回顧展を企画し、この展覧会はヴェネツィア・ビエンナーレやMoMAにも巡回しました。
リートフェルト晩年の主な出来事
- 1951年:デ・ステイル回顧展を企画(アムステルダム、のちヴェネツィア、ニューヨークへ巡回)
- 1958年:70歳の年に、ユトレヒトのセントラル美術館で回顧展。米国のテオドール・ブラウンによる評伝も出版され、再評価が進む
- 1963年:オランダ政府からファン・ゴッホ美術館の設計を依頼される
- 1963〜1964年:ハーグの宝飾店スティルトマンの内装に合わせて、晩年の椅子「スティルトマン・チェア」を制作
- 1964年6月25日:ユトレヒトで死去
- 1973年:ファン・ゴッホ美術館本館が開館(弟子のファン・ディレンとファン・トリヒトが完成)

ファン・ゴッホ美術館の本館は、リートフェルトが亡くなる前年の1963年に依頼され、1964年に設計を進めましたが、完成を見ることはありませんでした。彼の遺志は、共同で働いてきたファン・ディレンとファン・トリヒトが引き継ぎました。
リートフェルトと日本
Rietveld and Japan
リートフェルトは、日本とも意外なつながりを持っています。
まず、ファン・ゴッホ美術館です。1999年に開館した新館(展示棟)は、日本の建築家黒川紀章が設計しました。直線と立方体で構成されたリートフェルトの本館に対して、黒川は楕円形の曲線を使い、非対称の構成で応えています。建設には日本の損保ジャパン(当時の安田火災)の支援がありました。
次に、日本国内の美術館や展覧会です。豊田市美術館は、ジグザグ・チェアやベルリン・チェアなど、リートフェルトの作品を複数所蔵しています。宇都宮美術館にもレッド&ブルーチェアがあります。
日本でリートフェルトに出会える場所
- 豊田市美術館:ジグザグ・チェア(1932〜33年デザイン、1940年制作)、ベルリン・チェア(1923年デザイン、1958年再制作)などを所蔵
- 宇都宮美術館:レッド&ブルーチェアを所蔵
- 東京オペラシティ アートギャラリー:2016年9月17日〜11月23日に「オランダのモダン・デザイン リートフェルト/ブルーナ/ADO」展を開催
- 2000年代には、「リートフェルトの色とかたち」展が国内各地を巡回
2016年の展覧会では、リートフェルトのほか、ミッフィーの生みの親ディック・ブルーナも紹介されました。ブルーナもまた、ユトレヒトの出身です。「基本的な要素による純粋な表現」という共通点から、二人のデザインが並べて語られています。
さらに、20世紀初頭のオランダの芸術家たちや、フランク・ロイド・ライトが、日本建築、特にその幾何学的な感覚に関心を持っていたことは、研究書でも触れられています。日本の住まいの感覚とリートフェルトの空間には、響き合う部分があると言えそうです。
リートフェルトのデザインの特徴
Five Characteristics of Rietveld's Design
リートフェルトのデザインを読み解く5つのポイント
- 線と面への分解:椅子や家を、細い線(角材)や薄い面(板)に分け、再び組み立てる。伝統的な形は解体され、新しい形が生まれる
- 構造がそのまま形になる:装飾を加えず、組み立て方が見えることが美しさになる
- 原色と無彩色:赤・青・黄と白・黒・灰色だけを使い、線と面をはっきり見分けられるようにする
- 機械と量産への関心:手仕事の職人でありながら、機械で作れる形、安く広く届く形を追求した
- 家具と空間の連続:椅子の発想が建築にまで広がり、暮らしの変化に合わせて動く空間を生んだ
- 研究者バローニは、リートフェルトの仕事を「新しい種類の家具をつくったのではなく、既存の家具に新しい意味を与えた」ものと評している
- リートフェルト自身も、椅子は「画鋲のように単純であるべきだ」という趣旨の言葉を残したとされる
現代のデザインへの影響
Influence on Modern Design
リートフェルトの椅子や家は、現在も世界中の美術館や住宅で見ることができます。MoMAはレッド&ブルーチェアを所蔵し、シュレーダー邸は世界遺産として大切に守られています。
カッシーナによる復刻製品は、100年近く前の設計が今も現役の「使える家具」であることを示しています。デザインの歴史を学ぶ教材としてだけでなく、日常に置ける名作として受け継がれているのです。
また、可動式の壁による変化する住まい、板を平らに運んで自分で組み立てる家具、材料をそのまま見せる仕上げなど、リートフェルトが試したことの多くは、今の暮らしにも生きています。小さな部屋を柔軟に使いたいという現代の悩みとも、決して遠くありません。
よくある質問
Frequently Asked Questions
ヘリット・トーマス・リートフェルトはどんな人ですか?
リートフェルト(1888〜1964年)は、オランダの家具デザイナー・建築家で、デ・ステイルを代表する一人です。家具職人の家に生まれ、独学と実践でデザインを身につけました。レッド&ブルーチェアやシュレーダー邸で世界的に知られています。
リートフェルトの代表作は何ですか?
家具では、レッド&ブルーチェア(1917〜1923年)、ベルリンチェア(1923年)、ジグザグチェア(1934年)、クレート家具(1934年)が代表的です。建築では、シュレーダー邸(1924年)とファン・ゴッホ美術館本館(1973年開館)が知られます。
「ヘリット」「ヘーリット」「リートフェルト」の正しい表記は?
オランダ語の名前を日本語に写すため、表記には揺れがあり、どれかひとつが唯一の正解というわけではありません。「ヘリット・トーマス・リートフェルト」は一般的な表記のひとつで、「ヘーリット」と書かれることもあります。英語表記は「Gerrit Thomas Rietveld」です。
レッド&ブルーチェアはいつ、どのように生まれましたか?
原型は1917年ごろに作られ、最初は着色されていませんでした。その後デ・ステイルの影響で形が整理され、赤・青・黄・黒の配色は1923年ごろまでに完成したとされます。制作年は資料によって幅があります。
リートフェルトとバウハウスはどんな関係ですか?
リートフェルトはバウハウスの教員でも学生でもなく、デ・ステイルの人です。ただし1923年のバウハウス展に招かれて出展し、デ・ステイルの考え方は、ブロイヤーなどバウハウスの若いデザイナーにも影響を与えたと言われます。
シュレーダー邸は見学できますか?
シュレーダー邸は美術館として公開されており、ユトレヒトのセントラル美術館が管理しています。開館日や見学方法は変わることがあるため、公式サイトで最新情報を確認してください。2000年にはユネスコの世界遺産に登録されています。
ジグザグチェアの特徴は何ですか?
4枚の板を組み合わせた、Z字型のシンプルな椅子です。1934年に発表され、金属の接合部品を使わない構造が特徴です。一見不安定に見えますが、板同士の組み継ぎと補強材で強度を保っています。
リートフェルトの作品は日本で見られますか?
豊田市美術館や宇都宮美術館が作品を所蔵しています。また、東京オペラシティ アートギャラリーで2016年に大規模な展覧会が開かれました。家具の一部は、カッシーナ・イクスシーなどの正規販売店で復刻品を確認できます。
ヘリット・トーマス・リートフェルトは、椅子という小さな物から、家、そして美術館まで、同じ考え方で形をつくった人でした。100年以上前の実験は、今も私たちの暮らしや空間のヒントになっています。バウハウスをはじめとする近代デザインの流れをたどりたい方は、バウハウスとは何かもぜひ読んでみてください。
