デッサウから東京へ、日本とバウハウスの繋がり
20世紀初頭にドイツのワイマールで生まれたバウハウス。殆どの方がその名前を聞いたことはあるかと思いますが、日本とバウハウスの関係はご存知ですか? 今回は、旅や仕事、人脈を通じて直接交流し、日本とバウハウスの架け橋となった日本人を紹介したいと思います。
鎖国を経て開国後、19世紀半ばから日本のイメージは、万国博覧会での発表や旅行記、写真などによってヨーロッパに伝えられるようになりました。これは、新たな表現方法を模索するヨーロッパの先駆的な芸術家たちに熱狂的に受け止められました。ヘンリー・ファン・デ・ヴェルデは、日本の美術工芸品に夢中になった多くの芸術家の一人であり、それらを自らの作品のインスピレーションの源とみなしました。「ドイツにおける〈日本=像〉」著者である、クラウディア・デランクは、バウハウスでも日本の美意識がどのように受け取られたかを本の中で詳細に述べています。その影響は、1923年にテオドール・ボーグラーがデザインしたサイドハンドル付きティーポット(日本ではお馴染みの「急須」)に最も顕著に現れています。
Japanese individuals at the Bauhaus
バウハウス美術学校で学んだ日本人
1922年、画家で評論家の中田定之助が日本人として初めてバウハウスを訪問しました。当時、中田はベルリンの日本人画家たちと一緒に暮らしていたが、ワイマールを訪れた後、バウハウスの目的や仕事について日本の新聞で最初に報道した一人です。
そしてバウハウスで最初に学んだ日本人は、画家の水谷武彦です。水谷は東京美術学校を卒業後、1926年に奨学金を得てドイツに留学し、当初はベルリンのライマン・スクールに通いました。1927年、バウハウス・デッサウに入学し、ヨーゼフ・アルバースとラースロー・モホリ=ナギの指導による予備課程を経て、家具工房と建築科で働きます。水谷は1929年にバウハウスを退学し、1930年に日本に帰国しました。
バウハウス学生証 山脇 道子
バウハウスの日本人留学生で有名なのは、山脇巌・道子夫妻。茶人の娘である山脇道子と結婚する前の藤田巌は、東京美術学校で建築を学び、修了後は前衛的な活動をしていました。1930年、巌は山脇道子とともにドイツに向かい、1930年から1932年までバウハウス・デッサウで学びました。
- 山脇道子『バウハウスと茶の湯』より
バウハウス第3代校長である、ミース・ファン・デル・ローエやルートヴィヒ・ヒルバーザイマーのもとで建築を学んだだけでなく、バウハウスに新設された写真部の主任である、ヴァルター・ペーターハンスの教室に通うなど、写真への関心を強めていきました。妻の道子は、予備課程を修了後、織物工房でグンタ・シュテルツルやアンニ・アルバースのもとで修業した。1932年、バウハウスに対する政治的圧力が強まり、ベルリンへの移転が間近に迫ると、山脇夫妻は日本に帰国します。山脇夫妻は、数々の作品や家具、書籍だけでなく、2台の織機も持ち帰り、道子はその後、東京のアトリエでテキスタイルやファッションのデザイナーとして使用し、成功を収めています。
巌は建築事務所を設立し、画家・三岸好太郎のアトリエや夫妻の別荘を手がけるなど、モダンなフォルムと日本の伝統的なインテリアデザインを融合させたプロジェクトを行いました。「モガ」と「モボ」(モダンガールとモダンボーイ)として、山脇夫妻はヨーロッパで身につけた西洋化したファッションやライフスタイルのイメージを提示し、戦前の日本の若者文化では、最も有名なものとなりました。
建築家の吉田鉄郎も1931年から1932年にかけてヨーロッパを訪れ、多くの近代建築の代表的な建築家たちを訪問しました。吉田は、欧米の建築家仲間が日本建築に大きな関心を寄せていることを知り、日本から日本の住居の詳細な図面を送ってもらいたいと願うほどでした。1931年11月7日、吉田はバウハウス・デッサウを訪れ、短い講義を行いました。フーゴ・ヘリングやルートヴィヒ・ヒルバーザイマーに励まされ、1935年にはエルンスト・ワスムート社から『Das japanische Wohnhaus』(日本の住宅)を出版しました。この本は、建築理論家のマンフレッド・シュパイデルによれば、30年ぶりにヨーロッパの建築家たちに日本家屋の秘密を明らかにした古典となりました。
Das japanische Wohnhaus
バウハウスで学んだ日本人:
- 山脇 巌・道子1930年、夫婦ともにバウハウスに留学、ミース・ファン・デル・ローエ、カンデンスキーらに学んだ。建築やフォトモンタージュなどを修得。
- 水谷 武彦1928年日本で最初にバウハウスへ留学した人物。帰国後、様々な活動を通じて日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した。
- 大野玉枝1933年に留学、バウハウス4人目で最後の日本人留学生。 ナチスによって強制的に閉鎖されたため、バウハウスで学んだ期間は4ヶ月から5ヶ月間というたいへん短い期間であった。
Back to Japan
その後日本へ
帰国後、日本のバウハウス関係者の道は、建築家・川喜田廉七郎を中心に集約される。バウハウスで学んだわけではないものの、バウハウスの設計思想に大きな関心を抱いていた錬七郎は、中田定之助や水谷武彦を通じてバウハウスの理解を深めていく。また、ドイツ語が得意だったため、ドイツ語の出版物にも接することができたそう。1929年、モホリ=ナギの著書『新しい展望 素材から建築へ』を翻訳し、バウハウスの教育理念を日本語で記すことになります。
1931年、川喜多は水谷武彦らと「生活構成研究所」を設立した。その1年後には新建築工芸学院を設立し、水谷、山脇巌・道子らを講師に迎え、バウハウスの教えを新しい世代のデザイナーに伝えていきました。1934年に出版された川喜多の芸術教育入門書は、バウハウスの考え方に強く影響され、日本でも好評を博しました。
しかしバウハウスと同様、川喜多の先進的な学校は短命に終わってしまいました。この学校は、芸術家、建築家、デザイナーの教育において、バウハウスのコンセプトが日本でどのように普及したかを示す唯一の例として、立っています。
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